1:黎明期

 
  端島の石炭発見は今から約200年前の文化7年(1810)に遡り、岩礁に露出した石炭を漁師が<磯堀り>と称して採掘したのが始 まりと言われています。その後天草出身の小山秀によって開坑が着手され、明治15年(1882)に佐賀藩(鍋島藩)の支藩である深堀 藩の領主鍋島孫太郎の所有となり、黎明期の開発が始まります。この期間、閉山時には既にない第一竪坑が開削されています。

2:初動期(明治23年〜大正)


  明治23年(1890)三菱社の買収により、本格的な操業が開始 されます。それに先駆けて三菱の社船<夕顔丸>が就航(明治20年
)し、買収直後に製塩工場の建設とそれに伴う蒸留水機の設置(明治 24年・『海底の生命線』で詳細解説)、第二竪坑・第三竪坑の相次 ぐ開坑(明治28年・29年)により、端島の炭鉱としての基礎が整
っていきました。
  写真は明治40年(1907)頃の端島。煙が出ているのが製塩工 場の煙突。そのすぐ左が旧第二竪坑櫓、さらに左寄りに見えるのが第 三竪坑の木造櫓。また右端に、閉山時にはない船着場(『海の道』で 詳細解説)が写っています。


軍艦島〜失われた時を求めて〜』より引用

3:黄金期(大正〜戦前)


  大正に入ると、石炭の採掘方法に飛躍的な変革がおこなわれました。

採掘の方法は、それまでの残柱式と呼ばれるものから長壁式と呼ばれ るものに変わり、圧搾空気による削岩機(コールピック)が導入、運 搬方法も従来の人力・馬力から、エンドレスと呼ばれる機械力に変わ り、最終的にはベルトコンベアになりました。また照明も、それまで の安全灯からキャップランプに変わり、更に第四竪坑の開削(大正1 4年)と第二竪坑の掘り下げ(昭和9年)が行われました。これらに よる深部開発と掘削の成功により飛躍的な発展を遂げ、昭和16年(
1941)には端島史上最高の40万トン以上を出炭し、事実上端島 炭鉱の黄金期を迎えることになりました。写真は木造の第二竪坑と第 三竪坑が連立する大正時代の端島。


三菱マテリアルの承諾を得て『高島炭鉱史』より引用

4:人口増加期(戦後〜昭和39年)


  戦後は労働組合の結成と労働関係各法の成立により、労働条件が飛 躍的に変化し、また満州からの引き揚げ者を大量に受け入れることで 島民数は増大し、表面的には端島史上最も活況のある時代になりまし たが、出炭量は戦前には及びませんでした。石炭生産合理化政策の波 が押し寄せる中、昭和39年(1964)年に坑内で自然発生した火 災消火のために最深部を水没させ、以降約一年、ぼた(石炭以外の残 土)ばかりの産出が続きました。島内にはリストラの風が吹き荒れ、 約2,000人が島を離れていきましたが、その後採掘地域を島の西 方にあたる三ツ瀬区域にシフトチェンジし、再び島に活況が戻ってき ました。写真は24時間操業で不夜城のように輝く夜の端島。


三菱マテリアルの承諾を得て『高島炭鉱史』より引用

5:終焉期(昭和40年〜昭和49年)

 
  三ツ瀬区域の新採掘地域の採炭は本格的な機械化により出炭率は格段に上がり、島には再び活況が戻りますが、国のエネルギー政策の石 油への転換等により昭和47年(1972)採掘終了、昭和49年(1974)安全上採炭できる石炭は全て掘り尽くした「終掘」の状態 で閉山。労使和解の和平的閉山で、炭鉱としては珍しい黒字閉山で約80年続いた炭鉱の時代に幕が下ろされました。

 
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黒ダイヤのトンネル

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■端島炭鉱沿革■

沿革

■主要施設■

鉱業所全景 坑道 竪坑 捲座 選炭施設 貯炭ベルトコンベア 換気施設 動力施設 硬(ぼた)

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■鉱業所のデザイン■

様々なデザイン