東シナ海の外海側海上から端島をみると、その壁のように密集した住宅棟群と周囲を取り囲む堤防から、まさに遠目には軍艦の様に見え ますが、操業当時はこの景観にプラスして、灯台の右側に鉱業所の第二竪坑の鉄骨櫓が飛び出し、神社の左側には始終煙を吐きだすボイラ
ー室の煙突が突出していたので、一段と軍艦に見えたに違いありません。大戦末期の昭和20年(1945)の事、本来は停泊中の石炭積 込船をねらって発射された魚雷が、この島を軍艦と間違えて発射されたという伝説にすり替わるくらい、その景観は軍艦に似ていました。   この島が「軍艦島」と呼ばれるようになったのは相当古く、大正5年(1919)に大阪朝日新聞が「2本煙突の巨大な軍艦に似ている
」と報じ、大正10年(1924)には長崎日日新聞が「軍艦島」の呼び名を報じました。恐らくこの頃から<軍艦島>が普及していった のでしょうが、この大正5〜10年というと鉄筋の建物は30号棟(画像右端寄)や日給社宅(画像神社左下)が出来た頃で、それ以外の 建物は総て木造でした。竪坑櫓も第三竪坑の木造櫓が一番高く、島のほぼ中央に製塩所の煙突が立っていた時代なので、閉山間近や今とは かなり異なった景観の時に「軍艦島」と呼ばれたことになります。
  しかし地元長崎の人はあまり軍艦島とは呼ばず、本来の呼び名である「端島」と呼んでいるのをよく耳にします。

 
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