昭和30年代に入り、炭鉱も全国規模
で最盛期を迎えると、その頃国内で広が
りつつあった緑化運動の影響を受けて昭
和41年(1966)既に屋上庭園とし
ては使われていた鉱員社宅(18号棟・
画像上の右寄り)屋上に<青空農園>が
作られました。
今でこそテラスや屋上を使った菜園の
発想はまれではありませんが、高度経済
成長のただ中にあって、ある意味エコな
この発想は、とても現在からは考えられ
ない突飛かつ先進的な発想だったと思い
ます。
屋上菜園の土壌は、対岸の野母半島等
から持ち込まれ、子供達の手によって運
び上げられて、初めての屋上菜園が完成
しました。画像上・右下の赤煉瓦の囲い
跡付近(印)が最初に畑が作られた場
所です。秋には収穫祭が開かれ、子供達は自分たちで作った野菜をその場で掘って食べたようです。見晴らしのいい屋上で食べる自家製の
野菜は、さぞ美味しかったと思います。
翌年の昭和42年(1967)には子供達の研修を一番の目的としながらも、水田が造られましたが、残念なことにその環境のあまりの
過酷さに、収穫は2回が限度でした。
画像上は秋の屋上風景なので、草類は枯れてしまっていますが、春から夏にかけての植物が成長する季節は、一面緑色に覆われて、横か
ら見ると立ち並ぶ電柱と共に屋上の景観というよりは地上の景観のように見えるほどになります。(画像下は6月頃)
さながら地上の風景に見える日給社宅の屋上
地上感をさらにあおる林立する電柱