『軍艦島』−その外観が戦艦に酷似していることからそう呼ばれるよ
うになった、長崎県の南端、野母(のも)半島の海岸から約4kmの
海上に浮かぶ、長尺480m、短尺160m、周囲1.2km、島高
47.5mの半人工の海上炭鉱遺構「端島(はしま)」の俗称です。
  元来長崎の東シナ海側の海底には良質の石炭を産出する海底炭田が
あり、20世紀には多くの島が炭鉱として栄え、一大“黒ダイヤ”列
を形成していました( 上地図中  Nishisonogi Black Diamond
Islands
 )が、端島はその中で最も南端に位置します。
  1810年の石炭発見以来細々と採炭が行われていましたが、明治
23年(1890)三菱社の買収により、本格的な炭鉱施設として採
掘が開始。以降閉山まで良質の石炭を排出、八幡製鉄所等の原料炭と
して供給され、まさに日本の近代化の基幹的役割を担いましたが、国
のエネルギー政策の方向転換により昭和49年(1974)年1月閉
。同年4月に島民が一斉退去し、一瞬にして無人島になりました。


  最盛期の昭和30年代には世界最高の人口密度である5,300
人以上もの島民(当時東京の9倍の密度)が住み、学校から病院な
どの公共施設をはじめ、映画館、各種商店、旅館、寺社等、墓所を
除く生活に必要なあらゆる施設を併設。
  狭い土地と過密な人口対策として必然的に生まれた、日本初の高
層鉄筋コンクリート造アパート
(大正5年)をはじめとする林立す
る住宅棟群、無湧水の環境を打開した日本初の海底水道の敷設(昭

和32年)、植物の少なさを補うべく誕生した日本初の屋上庭園と、

時代の先端技術が次々と取り入れられていきました。また幾度とな
く猛威を奮った台風との闘いの跡が、要塞を思わせる護岸日本初
の可動式<ドルフィン桟橋>
に残されています。
  逆に島民の生活は裕福で、昭和中期の家電普及も早く、至る所に
出店された青空市場は、さながら年末のアメ横にも通じる人出の賑
わいでした。
  最先端技術のいち早い導入と裕福な生活、その反面外界からの供

給がない限り機能が停止してしまうという両側面を持ったこの島は、
その人口の多さと共に、まさに現代の大都市に通じる超近未来都市
でした。


  閉山後30年以上経つ現在、端島は廃墟としての時間を積み重ねて
います。鉱業所側の炭鉱施設は殆ど崩壊し、当時の面影を偲ぶことが
全くできない部分もありますが、30年という時の流れが「緑なき島
」と言われた島のあらゆる所に植物を繁茂させ、コンクリートの色を
変色させ、人工では造りえない絶妙な景観を提示しています。それは
さながら島全体が巨大な天然美術館のようであり、同時に壮大な歴史
が封じ込められた野外博物館でもあります。
  また室内には、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の所謂“三種の神器”をは
じめとした家電製品や当時の雑誌、子供用玩具等が残存し、昭和49
年の閉山時の生活を伝えるその様子は、昭和のタイムカプセルと言っ
ても過言ではありません。
  それら総てを含めて『軍艦島実測調査資料集』の阿久井先生の言葉
を借りれば「風化のプロセスにあるということ自体が、島がなお、私
たちの前で生きて語りかけ続けている」のであり「風化、変容、崩壊
のプロセス自体が貴重な展示物や研究観察の材料であり、さらには、
モニュメントそのもの」だということです。つまり廃墟だからこそこ
の30年に意味があったのではないでしょうか?


  そして2003年8月27日。軍艦島を世界遺産にする会がNPO
法人として認定され、2003年秋、軍艦島クルーズ就航、2006
年暮には、九州・山口の近代化産業遺産群の一つという形で、世界遺
産候補として文化庁へ提出
され、継続審査になりました。
  又、九州大学の森先生はその論文『海の道研修圏』の中で、この島
を青空博物館と定義し、生きた博物館としての価値を提唱なさってい
ます。
  海上に浮かぶただの岩礁だった時代、賑やかだった炭鉱の時代、穏
やかな時が流れた廃墟の時代、そして21世紀、それは野外資料館な
のか世界遺産なのかは解りませんが、この島にまた新しい時間が流れ
ようとしています。