第二次産業革命で幕を開けた20世紀の中で、<黒いダイヤ>とまでいわれた石炭の果たした役割はあまりにも大きく、石炭産業はまさに 今日の日本を根底から支えてきた一大原料産業でした。端島は明治期から昭和49年(1974)まで約80年操業した海上炭鉱の島で、周 囲を取り巻く海底の石炭採掘の拠点として、元来あった岩礁の周りを埋め立てる形で造られた半人工島ですが、もしこの地域の地中に沢山の 良質な石炭がなかったとしたら、この島に人の歴史が刻まれることはありませんでした。
 
■炭鉱の島端島とは■
  端島炭鉱の正式名称は<三菱石炭鉱業高島砿業所端島砿>(閉山時)といい、江戸時代の文化7年(1810)に露出炭が発見され、その 後佐賀藩(鍋島藩)の所有下で周辺の高島、香焼島、伊王島などと共に開発が進み、明治23年(1890)三菱社の買収により本格的な操 業が始まりました。明治年間のわずかな独立経営の時期を除けば、その歴史の殆どは北北東へ約2.5km離れた同じ三菱経営の高島炭鉱の 支山でした。明治から大正にかけての初期開発期、大正から昭和初期にかけての黄金期、戦後の世界最高の人口密度を誇った人口増加期、晩 年の新採掘地域開発の時代を経て、閉山、島民は一斉退去し、一瞬にして無人島になりました。
 
■端島と石炭■
  地底の石炭採掘地域は、島の大きさを遙かに上回る広範囲に渡るもので、またその深さも最深部では1000m以上と、気の遠くなるもの でした。三菱の経営下になってから閉山までの84年間で約1,570万トンの石炭を産出し、八幡製鉄所への燃料炭の供給をはじめ関西地 方の瓦斯会社への供給などによって日本の近代化を根底から支えました。
 
■石炭のもたらしたもの■
  産出される石炭は<強粘結炭>とよばれる、石炭の中では極めて良質な種類のもので、又一般使用炭がいち早く石油に変換されていく中、 製鉄に於いては常に必要とされた原料炭を産出していたことが、この島へ人を集め続けた最大の要因であり、同時に三菱財閥繁栄の礎も端島 を初めとしたこれらの炭鉱開発にありました。
 
■石炭史以前■
  因みにまだ石炭が発見される以前の江戸時代、天保4年(1647)に佐賀藩が作成した「肥前一国絵図」には、端島を<はしの嶋>とし て佐賀藩の支藩である深堀の領と記されていますが、最も近い対岸にある御領だった高浜村も端島を自村の所領と思い、表記も<初島(はし ま)>というものでした。両者の端島をめぐる領土権の確執は石炭発見以前から根深いものがあり、それが石炭の本格的採掘を明治までまた なければならなかった理由と言われています。

 
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黒ダイヤのトンネル

プロローグ

■端島炭鉱沿革■

沿革

■主要施設■

鉱業所全景 坑道 竪坑 捲座 選炭施設 貯炭ベルトコンベア 換気施設 動力施設 硬(ぼた)

■周辺関連炭鉱■

<図>周辺地図 中ノ島炭鉱 三ツ瀬 高島炭鉱 横島炭鉱 崎戸炭鉱 池島炭鉱

■鉱業所のデザイン■

様々なデザイン