昭和7年(1932)に給水船<三島 丸>が進水し、長崎市の鹿尾水系を水源 とし土井首給水場経由で1日1回の船に よる給水が始まると、蒸留水時代には1 箇所だった給水栓も数カ所に増え、各家
庭への運搬はずいぶん楽になりましたが、
昭和10年(1935)に製塩事業が廃
止され、真水の確保が給水船のみに頼る
ようになると、やはり水の貴重さはかわ
らず、蒸留水の時代と同様水券の発行に
よる給水の制限は続きました。
戦後には給水船も3往復するようにな
り、島内には学校の裏手の巨大な2槽の
タンクをはじめ2,100t分の水槽が
設置されましたが、今度はその輸送費が
膨大にかかり、やがて水源から直接水を
引くパイプを設置するという海底水道の
発想が生まれることになります。
旅客船もかねた、給水船<朝顔丸>。『軍艦島〜失われた時を求めて〜』より引用